耀盌(ようわん)と名付けられた出口王仁三郎の茶盌は世間の耳目を集めた。
今度は耀盌の展示がきっかけとなり思わぬものが世に出ることになった。昭和24年10月、東京芝の美術倶楽部で開催された耀盌展会場での出来事。
耀盌の横には王仁三郎の筆になる箱書きと共に、王仁三郎の妻・すみ子の筆による箱書きもあった。両者の箱書きに目を留めたのは稲垣黄鶴(こうかく)書道芸術院審査員、日本女流書道協会理事。十代にして御前揮毫(きごう)をするほどの力量の持ち主であった。職業柄、茶盌より先に箱書きに目がいった。
王仁三郎の文字にも驚かされたが、稲垣にはすみ子の文字のほうがより強い衝撃を与えた。平仮名で書かれた「てんごく」の4文字がそれであった。
明治16年生まれのすみ子は、貧しい家に育ち就学できず、独習して読み書きできるのは平仮名だけ。すみ子の字は、どれも一見、まるで子供が書きなぐったような字であった。
稲垣は「既成の書法、理屈に当てはまらない書。あえて言葉にするなら霊筆とでも言うほかない。普通の人間では絶対に書けるものではない」と絶賛した。