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謡曲・仕舞の案内

出口日出麿の芸術

神仙の境地

出口日出麿          

出口日出麿           明治30年〜平成3年 (1897〜1991)  大本三代教主補。明治30(1897)年、岡山県倉敷に生まれる。幼少より霊的感受性強く、大正8(1919)年に大本入信。昭和3(1928)年、出 口直日と結婚。第二次大本事件による弾圧で過酷な拷問を受け、事件後は大本教主を霊的に補佐し、万民の霊的救済に専念する。著書に『信仰覚書(全8巻)』 『生きがいの探求』『生きがいの創造』『生きがいの確信』、句集『山懐集』など。口日出麿が若き日に記した覚書からの著作『生きがいの探求』『生きがいの創造』『生きがいの確信』の3部作(講談社)、その半生が描かれた『神仙の人 出口日出麿』(同)は、多くの人々に感銘を与えた。

書家の綾村坦園は、日出麿の晩年の書について、次のように評した。

「書や画にみられる空間の見事さは、比較する ものがないほどすばらしい。また、みがきあげられた墨線のうつくしさも比類がない。しかも、それが実に温かく、生命感にあふれている。じつに透き通った、 仙味をおびた、一つの厳しい世界が出ている。師の書の線は、あくまでも男性であり、決定的なギリギリの線を示しておられる。したがってその点は妥協をゆる さない。まれにみる清冽無類の書線を形成するのである。

脳裏にわいてくる想念の世界を、字の形に喜びをもって表されている。だから、師の書はおもしろい形のものが ある。ところが、根本において文字の形が出来ているから、非常に暗示があるような書になっている。師の書の境地は清浄境であり、それこそ創作の境地であ る。また、モノ寂びた遊芸神秘の境地ともいうのであろう。

中国の文字の根本の世界までも悟られて、現在はご自分の情熱の世界に遊んでおられる。ご自分の自由な、まる い仙味をおびた世界に入っておられる。この境地は、神韻縹渺たる、まさに神仙の境地であって、生ぐさい人間どものおよびもつかない、世の常人ではとても至 りえない世界なのである」

短歌の案内

出口直日の芸術

悠々と遊ぶ大器

出口直日          

出口直日            明治35年〜平成2年 (1902〜1990)  大本三代教主。明治35(1902)年、王仁三郎・すみこ夫妻の長女として、綾部に生まれる。昭和3(1928)年、出口日出麿と結婚。「脚下照顧」 「言心行一致」を旨とした教風の確立を目指す。陶芸・書画・織物・短歌など日本伝統文化を重んじ、茶道・能楽などにも深い造詣を持つ。信仰即芸術即生活の 実践を説いた。著書に『私の手帖』『こころの帖』『寸葉集』『聴雪記』、歌集『ちり塚』『雲珠桜』など。道、短歌、書、画、能楽、日本舞踊、陶芸…。

出口直日は、多芸多才の人であった。それは、趣味としてたしなむというものではなく、多忙な日々を送りながらも真剣に打ち込むその姿は、大本の教えである「信仰 即 芸術 即 生活」の実践であった。

多くの文化人・有識者らがその芸術性、人間性に魅せられて居宅を訪れた。

陶芸の人間国宝・石黒宗麿は次のように評した。

「平凡と凡庸とは隣りあわせに存在する。
しかし、平凡にして凡庸ならざるものには、言いしれぬ深さと気高さがにじみ出てくる。
その人の本質、すなわち《人柄》と《心境》の高さが、作りあげていった《モノ》こそは、突飛な技巧など足もとにもおよばないものである。
私が直日さんの陶芸作品を高く評価している所以は、この点にある。
何気なく作られた作品の中に驚くべきものを発見することがしばしばある。直日さんの人間性の高さがそこに結晶されている。われわれはそれに頭を下げる」

「始めから悠々と遊ぶ大器の人である。何でも知っていて、その片鱗もひらめかさないし、高い教養を蔵しながら、深く沈潜して発せずという人である。
愛情を込めて作られる仕事の悦びは、上手とか下手とか常識ではきめられないものである」

茶道の案内

古今独歩

出口なお       

出口王仁三郎          明治4年〜昭和23年 (1871〜1948) 明治4年、京都府亀岡市生まれ。幼少時代より特殊な霊能力を持ち、“神童”といわれる。明治32(1899)年、「大本」の開 祖・出口なお(教祖)を訪ねて、大本入り。なおとともに、大本教祖となる。「人類愛善」「万教同根」の理念のもと人類愛善会を創立するなど、世界平和の建 設を目指した。書画・陶芸・短歌などの芸術作品は膨大な数にのぼる。著書は『道の栞』『道の光』『霊界物語(全81巻)』など多数。口 王仁三郎は、最晩年の1年3カ月間、楽焼き造りに没頭した。その数、3,000点余に及ぶ。昭和10年(1935)におきた大本弾圧事件により、6年8カ 月の未決独房生活を強いられた王仁三郎は、自由の身となった後、昭和19年(1944)の年末から制作を始めた。その時すでに73歳。独房で想念を巡らし た焼き物造りに精根を傾けた。粘土をこねて形を作り、竹のささらで表面を穿ち、次から次へと彩色した。「古今独歩」の楽焼茶盌の誕生である。

焼き上がった茶盌は「そのうち宝になる」と、惜しげもなく信徒らに分け与えた。その茶盌を手にした信徒らは、戦後の暗い時代の中で、輝くような美しい茶盌を家宝にした。

王仁三郎昇天の翌年、昭和24年(1949)に陶芸評論家の加藤義一郎が備前焼・金重陶陽(人間国宝)宅で、王仁三郎の茶盌を見て衝撃を受けた。

その時、加藤義一郎は次のメモを書き残している。

「王仁師手造り『天国廿八』『御遊』の二盌をみせられておどろく。その色彩とリッチさ、茶盌の姿、芸と品格、天才」

このあと、“これこそ明日の茶盌”と評して「耀盌(ようわん)」と命名。「耀盌顕現」という短文で『日本美術工芸』誌に発表し、日本美術界にセンセーションを呼び起こした。その後、日本各地で展覧会が開催され、大きな反響を呼ぶ。

昭和47年(1972)、耀盌は欧米に渡った。パリのセルヌスキ美術館を皮切りに、3年3カ月にわたり、6 カ国13会場で行われた「大本海外作品展 ―出口王仁三郎とその一門の芸術」である。この展覧会では、約25万人が大本の美に触れ、色彩豊かな耀盌の耀きに魅せられた。

 

エスペラントの案内

esuperanto

「一つの世界」実現のために(エスペラント活動)

大 正十二年(一九二三)、聖師は国際語エスペラントを学習するようにと側近の加藤明子に命じました。 戸惑っている加藤のもとへ、たまたま京大在学の高見元男(出口日出麿尊師)から送付されてきた新聞のきりぬきによって、京都同志社大学でエスペラントの講 習会が開かれていることを知り、加藤は受講しました。 それ以後、大本ではエスペラントを積極的に採用することになり、エスペラント研究会(現在のエスペラント普及会)が設立されます。 当時、聖師はエスペラントに関する次のような講演をしています。 「開祖の筆先にいろは四十八文字で世界を統一するという意味があります。神さまは予言者の智性意志、記憶を基礎として神意を洩らされるものであるから、か くお示しになったのであります。今後の大本の使命はめいめいに手分けして神の国の福音をあまねく宣べ伝えることです。ついては今日のように世界各国の言葉 が分かれていては至難なことです。けれども世界共通語のエスペラントは僅か二十八文字で通用し世界へ行き渡っているから、この語を研究して神意を世界へ宣 伝するというのは神意に叶ったことであります」 大正十四年には、「ラ・ヴェルダ・モンド」(緑の世界)がエスペラント普及会から発行され、各地で講習会が催され、大本の分所や支部に百有余のエスペラン ト普及会支部が設置されるにいたりました。 昭和十年の第二次大本事件から十年間の中断の時期がありましたが、エスペラント普及活動は、昭和二十一年愛善苑として教団が新発足するとともに復活しま す。 その後は、以前にもまして大本におけるエスペラント運動は盛んになりました。 昭和三十八年(一九六三)にエスペラント普及会設立四十周年を迎え、大本会館北庭の一画に記念碑が建立されました。 碑面は「Unu Dio, Unu Mondo, Unu Interlingvo」( 一つの神、一つの世界、一つの仲介言語)と刻まれています。 三代教主は、「エスペラントは運動というよりも、万国共通のエスペラント語を身につけることで、平和な世界の人にならしていただくのです。 エスペラントは政治、宗教、民族の境を越えて世界を一つにしてくれるもので、右にも左にも共通する立場のものです。 平和のために、これほど具体的で公平に働きかけるものはありません」と、また「世界平和をきづき上げるには、各自に心の平和をきづくことがもっとも大きな 要因となります。 それと共に、私たちお互いが努力しただけは報われる具体的な方法として、今日の世界平和を阻害している言語障害をとりのぞくエスペラント運動の重要性を、 私はいま身に沁みて感じています」とお述べになり、語学の上手下手にかかわらず、少しずつでも身につける努力をするようにと勧められました。 平成十五年は大本が主催して「第九十回日本エスペラント大会」を亀岡市で開き、国内外から千人を超える参加者がありました。 教主は、平成十六年(二〇〇四)の新春インタビューの中で、エスペラントの実用について「…エスペラントを仲介の言葉として、亀岡本部と南米本部がお互い に連絡を取り合う、一つのケースとして、最初はうまくいかないかも知れませんが、これが機能し始めると、エスペラントの持つ意味が充分発揮され、やがては 海外宣教のよい型となるのではないでしょうか」と語りました。 教主はみずからエスペラントを学習し、大祭時など機会あるごとにエスペラントで挨拶し、信徒に範を示しています。 この年(二〇〇四)、EU(欧州連合)の議会では、エスペラントを議会の公用語に採用するかどうかの投票で、反対派が百六十人に対し賛成派は百二十人(四 十三%)に迫り、中立の共通言語としてエスペラントが公用語に採用されることも夢でなくなりつつあります。 大本とエスペラント普及会は、言語の障壁を取り除き、世界の平和と人類の和解を促進するため、各国語の尊重とともに、世界共通語エスペラントの国際的実用 化をめざして活動を進めます。

書道の案内

出口なおの芸術

大本開祖と「お筆先」

出口なお        
出口なお         天保7年〜大正7年(1837〜1918)本開祖。出口王仁三郎とともに大本教祖の一人。福知山(京都府)の桐村家に生まれ、嘉永6年(1853)綾部(同)の出口家の養女となる。大工の夫・政五郎の気ままな生活と病臥にもよく仕え、三男五女の母として、糸引き・紙屑買いで生計を立て、過酷な試練を生き抜く。 貧困の中にも、清く誠実に日々を送っていたが、数え年57歳(満55歳)を迎えた明治25年(1892)旧正月、2月3日の節分の夜、「艮の金神」という神が“帰神”し、大本は開教した。 生涯を神の啓示である「お筆先」のご用に仕え、その数は1万巻(半紙約20万枚)におよぶ。 その日常は静寂に香る白梅のごとく清らかで、きびしいなかにも慈愛にあふれ、「この世の亀鑑」とたたえられた。 つねに衣食を節して世の乏しき人々に思いをよせ、世の大難を小難に小難を無難にと、日夜に水ごりをとり、一身を捧げて万民和楽の「みろくの世」の実現と人類の平安を祈りつづけた。

「お筆先」

口なお刀自は平素はやさしく物静かであったが、帰神状態には、腹の底から太い凛とした男神の声を叫び、自身でその声を抑えることができなかった。 なお刀自が大声を出すことを恥じ、「艮(うしとら)の金神(こんじん)」に声を出さないように頼むと、神は「筆を持て」といい、文字の読み書きがまったくできなかったなお刀自が、筆を持つと自動書記的に紙に文字が記されていった。 大正7年(1918)11月に昇天するまでの27年間、昼夜を問わず書きつづけられたその数は、和綴じ本で1万巻、半紙にして約20万枚におよぶ。 これを大本では「お筆先」と呼び、のちに出口王仁三郎によって漢字があてられ、『大本神諭』(大本教典)として発表された。

出口なお刀自使用の机と「お筆先」和綴じ本 出口なお刀自使用の机と「お筆先」和綴じ本

人類愛善会の案内

 人類愛善会は、人種、国境、宗教を問わず、志を同じくする人たちが相携えて世界の平和と人びとの幸せのために活動をする団体です。  1925年 (大正14年) 6月9日、 出口王仁三郎を初代総裁として創立され、現在は、出口紅5代総裁の指導のもとに日本国内はもとより、世界各国に多くの賛同者を得て活動をしています。   京都府亀岡市天恩郷に総本部を、東京都台東区池之端に東京本部をおき、国内に60の協議会があり、そのも とに 600の分会をおいています。海外ではブラジルをはじめ、モンゴル、インド、スリランカ、ネパール、フィリピン、ナイジェリア、ポンペイ、ホンコンなど に、本部、センター、事務所、分会、連絡所を設けています。